〜信仰とは?〜
慣習とは、同調圧力が伴いがちなものです。
地方に行けば行くほど閉鎖的な所もあり、
「郷に入れば郷に従え」とばかりに求められます。
そして、もしも従わなければ、
村八分的な差別を受けることにもなるでしょう。
しかし信仰心というのは、
日本国憲法第二十条で保障されている通り、
決して他者から押し付けられるものであってはならないのです。
〈日本国憲法第二十条〉
・信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。
・何人も、宗教上の行為、祝典、
儀式又は行事に参加することを強制されない。
当たり前と思っている昔からある慣習に対しても、
間違っていることは多々見られます。
それは、真実なのか?虚偽なのか?
いつから、だれが、何のためにそうしてきたのか?
そしてそれらは本当に必要なことなのか?
真実を学び、社会に反映させることは、
とても重要ですが、反対に虚偽を擦り込み、
社会に反映させることは、明らかなる詐欺行為なのです。
〜しなければ救われない
〜しなければ仏になれない
〜しなければ遺族が祟られる
などと死後の儀式の必要性を説く宗教はすべて詐欺集団です。
信仰の自由と称して、
子供や無知の人を洗脳する行為は、
恐喝であり詐欺行為なのです。
ですから信仰の自由という法の下で、
一様に擁護されるべきことでもありません。
信じる者は救われるとよく言われますが、
何を信じるのか?真価が問われます。
虚偽を信じたところで、
虚偽であることには変わらないのです。
黒が白に、狸が犬にはならないのです。
それは例えば、偶像をいくら拝んだところで、
偶像は偶像のままであり、
誰かが造った芸術作品の一つでしかないのです。
偶像が、あなたの願いを叶えるために働くことは決してないのです。
仮にあなたの願いが叶ったとしても、
それはあなたの努力の結果であったり、
あなたと縁のある人たちや靈人たちのお計らいやお力添えによるものであったりします。
ですからその場合は、感謝を手向ける対象は偶像にではなく、
日々あなたのために動いてくれている肉体に対してであったり、
あなたのために働いて下さった他者に対して向けられるべきなのです。
それは信仰心ではなく、
育によって得られる正しい認識というものです。
何を拝むのか?それは何に感謝の念を手向けるのか?
ということなのです。 すべての宗教に対する真偽の見直しを、
シャーマンの一人として要求いたします!
それは真実ですか?
虚偽ではないですか?
2020.7.4 神人 拝
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