法要しなければ故人を供養できない⁉︎
お盆には故人が家に帰ってくる⁉︎
墓に故人が眠り位牌に魂が宿っている⁉︎
それは、大きな間違いです❗️
なぜならば元々はすべてが作り話であり
信徒を増やし布施を得るためのものだからです。
田舎では僧侶が檀家に対して、年忌法要を義務化し、行わなければ強要する人もいます…。
いわば、布施=お金を要求する
という間違い(=寺請)がまだまかり通っているのです。
檀家制度(だんかせいど)とは、寺院が檀家の葬祭供養を独占的に執り行なうことを条件に結ばれた、寺と檀家の関係を言います。
寺請制度(てらうけせいど)とも言われます。
江戸時代の宗教統制政策(江戸時代よりキリスト教弾圧&寺院守護の目的で始まったもの)の一環として設けられた寺請制度が檀家制度の始まりです。
檀家は特定の寺院に所属し、葬祭供養の一切をその寺に任せ、布施を払います。その意味では、一般民衆である個々の檀家が寺院の経済的な支援者となります。しかし、檀家制度においては、寺院の権限は強く、檀家は寺院に人身支配されていたと呼べるほどの力関係が存在していました。寺院側は、常時の参詣や、年忌・命日・法要の施行などを檀家の義務と説き、他に寺院の改築費用や本山上納金などの名目で経済的負担を檀家に強いたのです。今日におけるお彼岸の墓参りやお盆の法事などは、檀家制度によって確立したものといえます。
幕府宗教政策もあって、寺院は社会的基盤を強固な物にすることに成功しましたが、
一方で仏教の世俗化が進みました。
寺請の主体となった末寺は本山への上納など寺門経営に勤しむようになり、
仏教信仰は形骸化してゆきました。
檀家を持たない寺院は“現世利益を標榜することで信徒と布施を集める”ようになり、檀家を持つ寺もまた“祖先崇拝といった側面を強めて”ゆきました。いずれにせよ、このような寺院の強権的な立場、民間信仰(祖霊信仰)とのより強い混合、また堕落は制度ができた当時から批判があり、それらは明治の廃仏毀釈に繋がっていくことになるのです。
現在では、寺院の権限はほとんど無いにせよ、檀家制度は残っています。いわゆる葬式仏教や、檀家制度によって確立した年忌法要、定期的な墓参りは日本に根付いており、葬儀や先祖の命日法要、墓の管理を自身の家の檀那寺に委託する例は多いのです。
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《《《檀家制度の歴史》》》
*飛鳥時代に仏教が伝来した。
*有力者が仏教信仰対象=檀越となった。
*有力氏族が寺院を建立した。
*蘇我氏の飛鳥寺の秦氏の広隆寺が有名。
*寺は有力氏族のために葬祭供養を行った。
*檀越→檀家の源流である。
*寺院は所領を持つようになる。
*荘園領主的な側面を帯びるようになる。
*寺院の収入源は布施から荘園収入に変わ
る。
*寺院は政治的な権力を持つ。
*寺院は檀越に依存しなくなる。
*応仁の乱以降、荘園制崩壊となる。
*寺院は一般民衆を対象とし布教する。
*仏教は出家から在家へ移行していく。
*坐禅から葬祭へと比重が変わる。
*寺院は先祖崇拝や家と結びついてゆく。
*檀家という言葉は鎌倉時代には存在した。
*仏教は一般民衆の家と結びついていった。
*檀家制度は、応仁の乱(1467-1478年)以降、江戸時代に寺請制度が施行される約200年間の、荘園制が崩壊して郷村が成立、また広範な家の概念が成立した時期にできた。
*寺院(檀那寺)は、社会的・経済的基盤を荘園や特定の檀越・外護者から、一般民衆へと移し換えた。
*江戸幕府は、1612年(慶長17年)にキリスト教禁止令を出し、以後キリスト教徒の弾圧を進める際に、転びキリシタンに寺請証文(寺手形)を書かせたのが、檀家制度の始まりである。
*キリスト教徒ではない証として民衆に寺請が行われるようになる。
*武士・町民・農民は身分問わず寺院の檀家にさせられた。
*寺院の住職は自らの檀家であるという証明として寺請証文を発行した=寺請制度
*寺請制度は国民全員が仏教徒となることを義務付けるものであり、仏教を国教化するのに等しい政策であった。
*寺請を受けないとキリシタンのレッテルを貼られ社会権利の一切を否定された。
*末寺=檀那寺は幕府の命により寺請の任を背負い、キリシタンの親族の監視など禁教政策に伴い権限を強化していった。
*寺請制度は世の中が平和になり人々が自分の死後の葬儀や供養のことを考えて菩提寺を求めるようになったゆえの制度とする見方もある。
*1631年の寺院の新寺建立禁止令などを通して、檀那寺は檀家を強く固定化する。
*檀家になるとは経済的支援を強いられるということであり、寺院伽羅新築・改築費用、講金・祠堂金・本山上納金など、様々な名目で経済的負担を背負った。
*1687年の幕法は、檀家の責務を明示し、檀那寺への参詣や年忌法要のほか、寺への付け届けも義務とされている。
*1700年頃には寺院側も檀家に対してその責務を説くようになり、常時の参詣、年忌命日法要の施行、祖師忌・釈迦の誕生日・釈迦涅槃日・盆・春秋の彼岸の寺参り(墓参り)を挙げている。
*もし檀家が責務を拒否すれば、寺は寺請を行うことを拒否し、檀家は社会的地位を失った。
*遠方に移住するというような場合を除いて、別の寺院の檀家になるということもできなかった。
*一般民衆には生まれた家は檀那寺の檀家となって責務を履行する以外の術はなく、寺と檀家には圧倒的な力関係が生じた。
*江戸時代の檀家は、寺の経営を支える組織として寺院に組み込まれたものであった。
*寺院の安定的な経営を可能にしたが、反面で信仰・修行よりも寺門経営に勤しむようになり、僧侶の乱行や僧階を金銭で売買するということにも繋がっていった。
*家や祖先崇拝の側面が先鋭化し、本来の仏教の教えは形骸化して葬式仏教に陥った。
*檀那寺は、檀家制度によって極めて安定的な収入源を得ることに成功した。
*檀家のいない寺院は現世利益を旨として信徒を集めるようになった。
*寺院は寺檀関係を持つ回向寺(えこうでら)と現世利益を旨とする祈祷寺(きとうでら)に分かれた。
*檀家は負担を強いられたが、先祖供養を目的に祖先崇拝するようになり檀家制度は受け入れられていった。=※儒教の影響
*日本では死後一定の段階経ると仏になると言われるが、元来の仏教にはそのような教えはどこにも無い。
*檀那寺に墓を作ることも義務化され一般庶民でも墓に石塔を立てる習慣ができた。
*檀家は先祖の追善供養を行い、家の繁栄を願うように指導された。
*祈祷寺は、無病息災、恋愛成就といった個人レベルの願い、五穀豊穣、商売繁盛といった家の繁栄の願いなどを寺院参拝の御利益とし、他に祈祷などを行なった。
*祈祷寺は流行仏と言われ、定期的な開帳を行なったり、縁日を行なうことで布施を集めようとした。
*回向寺も檀信徒の信仰心が離れないよう祈祷寺と同じく、定期的な開帳を行なったり、檀家の義務と説いた年中行事も祭事や縁日のような興行的な側面を強くし、布教の一環として説教も盛んに行なった。
*江戸時代の人々は回向寺で先祖の追善供養を行なって家の現在・将来の加護を願い、祈祷寺で自身の現世利益を願った。
*檀家制度や本末制度によって生じた寺院の強権的な立場は、僧侶の乱行というような問題も生じさせていた。
*立場を利用して檀家から際限なき収奪が可能となった寺院には当然、批判が起こった。
*批判者は儒学者・神道学者・国学者など幅広く、数も多かった。批判は江戸時代の初期からあり明治維新の廃仏毀釈運動まで江戸時代通して存在し続けた。
*幕府や藩は寺院への締め付けを行なった。
*1665年「諸宗寺院法度九ヵ条」
・寺院から無教養の僧侶を放逐する
・檀家の負担を軽減する
・寺に女性を泊めない
・離壇の権利を檀家に認める
*行政を担った寺院の権益を奪いきることはできず寺院の腐敗は続いた。
*明治最初期、多くの寺院の破壊を伴った廃仏毀釈運動が起こる。
*檀家制度による寺院経営にほころびが見えると、各宗派からも体質改善や改革といった声が出てくるようになった。
*本来の教え仏法に帰るべきという点が強く主張され、先祖供養などの否定にも及んだ。
*寺請制度は、1871年に氏子調に引き継がれて廃止されたが、檀家制度は依然存在している。
*寺墓を持つため寺と檀家が繋がっているだけというケースが多く、家人の葬儀や先祖の年忌法要といった儀式儀礼でしか寺と檀家は接点を持たない葬式仏教となった。
*経済成長に伴った農村から都市への人口移動なより人が減り廃寺となるところご目立っている。
*葬儀業者が一切を手配する例が多く寺檀関係は希薄化している。
*檀家制度は、年忌法要・彼岸や盆などの年中行事をが作りだしたが、現在でも日本人の宗教観や生活に大きな影響を与えている。
*仏教寺院に対し檀信徒一般が求めるものは、仏教の教義ではなく、墓や位牌といった先祖供養の側面が強く葬祭の司祭者としての関係となっている。
(☆Wikipediaより参照)
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2018.7.13 神人 拝
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