なぜ、自分はみちのく青森に生まれたのか?
なぜ、縄文遺跡のある地を転々としたのか?
なぜ、靈人と話が出来るシャーマンなのか?
青森県八戸市にて生まれ18歳まで縄文の地を転々と移り住んできた自分のルーツを振り返ると本来の自分に与えられた使命が紐解かれてゆきます。
そして、故郷は青森県の歴史を辿り解ることは、蝦夷アイヌの地であり、縄文の故郷であり、学校の教科書には出てくることのない大きな文明圏が存在していたという事実を知るに至ります。
世間には偽書と言われる書が数多く存在していますが、学者の方々よりいかがわしき本という烙印を押された類いのものです。
しかし、古より偽書とされている書の中にも、何が虚偽で何が真実であるのか?ということを踏まえた上でひとつひとつ丁寧に考えながら読むと、非常に面白いことが見えてきます。
そして、自分の足で地を巡ると確信することがありまさ!古代青森を中心とした蝦夷アイヌの東北文明は確実に存在していたということを!そして、日本の本当の歴史を解く鍵は、東北地方の磐座やストーンサークル、縄文遺跡群を学ぶことに隠されている!!と断言します。
2018.7.23 神人 拝
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『東日流外三郡誌』
昭和50年4月突如として青森県北津軽郡市浦村役場から発刊され、さまざまな論争を繰り広げられたが、偽書としての烙印を押され
論争はすでに終結したかのようであります。
しかし、『津軽古代王国』の真実や埋没神『アラハバキ神』の姿を垣間見るには
禁じられた書を開かねばならないのであります。
この古文書を記したのは、津軽地方の飯詰の住人、和田長三郎と出羽国(秋田市土崎)の秋田孝季という両名であった。
彼らは、子どもの頃から津軽藩大浦一族によって自分たちの祖先が眠る津軽の地を奪われ、古くからの由緒正しい系譜を抹殺されてしまったという話を聞かされてきたのであります。
天正12年(1584年)南部藩出身の大浦為信は、自ら津軽藩祖と名乗って
天正15年に高楯城(五所川原市飯詰)を攻略すると、世にいう津軽藩の圧政がはじまった。浪岡城北畠氏や高楯城藤原氏の一族残党は徹底的に弾圧され、それまで津軽地方で最も繁栄していた安東氏一族の家系図・古文献など、すべて見つけ次第抹殺したという。
そして2代藩主津軽信枚は歴史文献『津軽記』を没収し、5代藩主津軽信寿は元文5年(1740年)に古代の石器や土器類まで
厳しく微集したといわれている。
いったい、なにゆえに代々の津軽藩主は、津軽地方の古代豪族に強い恐れをなし、
安東一族の家系図まで抹殺をはかったのか?
それは、津軽為信公が南部系出身であったことと、安東一族が古代から最も崇拝していたアラハバキ神の祟りを恐れたからの様であります。
10代藩主津軽信順は、外出のさいにも悪霊退散の高札をかかげ、津軽地方の民衆弾圧と安東一族に関する神社仏閣の抹殺をはかったのです。
そして寛政年間(1790年頃)、安東氏の後胤にあたる秋田孝季は、ひそかに和田長三郎と協力し、失われた歴史を求め、2人で
日本全土82ヶ所を34年間にわたって調査したのであります。
彼らは、津軽地方の神社仏閣の古文献をはじめ、縄文時代までさかのぼる上古代の伝説や伝承記録はもちろん、全国各地に残された神武天皇や邪馬台国に関する古代記録、および安東氏一族の家系図や歴史記録など南北朝時代にいたるまでの中世史についての膨大な資料を収集し、8年の歳月をかけて全360巻に写筆したのであります。
つまり、秋田孝季らは特に津軽地方の正統な歴史的事実を津軽藩に抹殺される危険性を察知したため、同じ写筆本を2部作成し、両家がそれぞれ秘蔵することにしたのであります。
そして年月が経ち、昭和32年その秘蔵古文書は、青森県五所川原市飯詰の和田家で偶然に発見されるのでありました。
今から約5000年前、中国の三皇五帝の夏王朝時代、現在の青森県津軽地方(津軽半島の十三湖一帯の市浦村や亀ヶ岡地方岩木山麓)には、非常にすぐれた古代文化(亀ヶ岡文化)が存在していた。
しかも、縄文時代の岩木山一帯と亀ヶ岡地方には、アソベ族という古代人が定住していたが、約4000年前に中国大陸から多勢のツボケ族が十三湖に渡来。
アソベ族に文字を伝えたばかりか、青銅器や鉄器の利用法、すぐれた黒陶土器の製造技術も伝えたという。
アソベ族とツボケ族の混血した民族は、やがて数種類の文字(古代絵文字や糸の結び目によるキープ文字、砂文字など)を使い、
パンチカード方式による億兆単位の数字計算、日神と月神を中心とする石神信仰や八生輪廻という霊魂再生観をもっており、天地17神の神々を祭る『津軽古代王国』を築きあげ、後に強大なアラハバキ王国を設立。
さらに、「魏志倭人伝」に記されている邪馬台国は奈良県の大和地方にあって、五畿七道(現在の近畿地方や中部・山陽・北陸・近畿地方)を治めた邪馬台国の支配者は、神武天皇と戦った大和地方に君臨していた大王
長髄彦と安日彦の兄弟であった。
しかし、九州の日向から東征していたという神武天皇に敗れた長髄彦と安日彦兄弟は、はるか東北にある津軽地方の十三湖に亡命。
この地で新しくアラハバキ王国の王者となったが、彼らが津軽に逃れたのは、津軽地方を邪馬台国の故郷『邪馬奥』とみなしていたからであった。
そしてアラハバキ王国は、岩手県平泉にいたる広大な陸奥国=奥州一帯に、東西南北5人の国司者を配置し、強大な国家を形成。
さらに神武天皇以後の天皇後続者や政治問題にまで影響を及ぼすほどの勢力を持ったという。
しかも、平安時代初期に東北の蝦夷地征服のため進軍した坂上田村麻呂征夷大将軍と戦い、朝廷軍をことごとく破ったのはアラハバキ族の子孫にあたる津軽地方の安倍氏(安日彦の末裔)であったというのである。
津軽古代王国とアラハバキ王国の歴史年表
★紀元前(BC)18000年
アジア大陸から北方系のウラル・アルタイ民族が北海道・東北地方に移動。
彼らは岩木山一帯の阿曽部の森に住み着いたことからアソベ族と呼ばれた。
すなわち、原日本人とみなされる。
★BC12000年
古代アソベ族は十和田湖の十和利山に霊山ピラミッドの巨石神殿を築き、東北各地で巨石メンヒルや石神、岩偶、土偶神像を信仰する。
津軽半島では、日本最古の無文土器が生まれる。
★BC8000年
津軽半島で縄文土器が発生。
★BC3000年
中国大陸からツボケ族が津軽に渡来して、縄文土器文化と漆ぬり土器が栄え、青銅器が伝わる。
★BC2000年~1000年
アソベ族が各地に環状列石を作る。
アソベ族とツボケ族の混血による亀ヶ岡の縄文文化が繁栄。
★BC700年頃
岩木山麓と亀ヶ岡一帯に古代アソベ王朝が生まれ、最初の王ウソリから十七代の王朝国家がつづく。
★BC500年頃
津軽の亀ヶ岡から十三湖一帯に、古代ツボケ王朝が発生。
最初の王ダツトリから29代の王朝国家がつづく。
★BC100年頃
中国王朝からの新しい漂着民(周・普の君公子一族)とアソベ・ツボケ族の混血によってアラハバキ族発生。
★BC18年
十三湖一帯にアラハバキ王国成立。
★AD240年
大和の大王ナガスネヒコと安日彦が十三湖に逃れて、アラハバキ族の王となり、新アラハバキ王国が生まれる。新アラハバキ五王制による国家組織が発足。
この年から邪馬台城を築きモヤ山ピラミッドを作る。
参考文献
「津軽古代王国の謎」佐藤有文/サンケイ出版
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