〜食について〜
人間に与えられている唯一の自由とは、選択出来るということです。
ですから、食の選択についても、基本的には“各自が食べたいものを食べれば良い”ということになります。
自然界の動物たちは何を食べて生きているのか?食物連鎖を見ますと、捕食するものと捕食されるものに分けられ、それぞれが分相応のものを食べたいと欲求をいだき、喜びながら食べています。
動物はそれぞれに与えられた本能と、経験によって得た知恵で、食べる物や食べ方も分相応に異なります。人間が唯一動物と異なる点は、教育により食に対する知識が動物よりも豊富であるということと、色々な道具を使い調理して食べるという点です。
(*但し、食に対する教育内容が正しいとは言えません)
これまで私たち人間は、調理技術によってあらゆるものを食べてきました。
中国人は、椅子以外の四つ足動物はすべて食べものであるという価値観を持ち、現在でも通常の市場であらゆる動物が食材として売られています。韓国でも犬食がなされています。
さて、知恵というものは、時代に応じて進化してゆくものです。より良き方法=より良き選択を求めて時代に応じた変化をしてきました。
では、食生活において“より良き選択”とは、いったい何でしょうか?
今までよりも、
食べ易くすること。美味しくすること。健康にすること。安全にすること。効率良く楽にすること。嬉しくなること。自他共に負荷を与えないこと。他に喜ばれること。必要とされること。等…ではないでしょうか?
では、人はなぜ動物を殺して食べるようになったのか?大きく分けて二つの要因がある、と私は考えています。
一つは、悪魔たち(悪しき思想)による影響です。
人は、動物と違い靈性も知能も高く生態系の頂点に存在していますが、現在では知恵を使い、動植物を支配し、日々大量に殺しています…。
なぜならば、いつの時代からか、人間は何をしても許されるという人間にとって都合のいい思想を持ち、支配欲=傲慢に取り憑かれてしまったからです。
その思想を与えたのが、実は悪魔たちなのです。想像上の話ではなく、それが事実なのです。
恐怖を与えることによって崇められてきた悪魔たちは、人間に対して生贄を要求し、心身を支配し続けてきました。
そして、悪魔のしもべとなった権力者たちは足場となり、悪魔と同じような思想を持ち、宗教慣習で人々を支配してゆきました。
そして悪魔たちの影響により、世界中で人が人を狩り食していた人食の時代があるのです。(世界のタブーの一つです)
強い者が弱い者を殺し食べることが、悪ではなく自然であるという歪んだ考えが蔓延していたのです。しかし、良き叡智を得た聖者たちによって、人が人を殺し食すことはならないという思想を広げ、人食は影を潜めたのです。
ただし、人種差別する思想=奴隷制度だけは各地に残ってゆきました。
奴隷制度とは、元々は悪魔崇拝から来ているのです。強い者が弱い者を隷属化させ繁栄してゆくことが、当前のように人々は洗脳されてきたのです。
(※白人主義は同じ支配思想からです。有色人は無能で野蛮であり奴隷とすべきであると教育されてきました。)
支配思想=支配慾が強いと、人ばかりではなく、動物に対しても隷属化させたり、家畜化させ殺して食べる、という思想を肯定化しようとします。
もう一つは、天変地異による影響です。
温暖な気候であれば、身近なところで採取できる植物を主とした食生活が安全であり楽なのですが、植物を食べることが気候変動により難しくなると、危険を承知で動物を狩猟し食べるより道は無くなりました。
過去の時代を遡れば、天変地異による気候変動で、人も動植物も次々と死滅し、食べ物が不足した過酷な時代に生きなければならなかった背景があるという事実に辿り着きます。
有名な出来事では、縄文時代において、人がマンモスや大型の鹿をすべて狩り食べ尽くし滅ぼしてしまったということです。
近代においても、戦争により食料難となった時代では、同じく家畜(牛馬豚山羊鳥)は元より、犬猫蛇蛙虫…に至るまで、食べられるものは何でも食べて良いという考えを共有しました。
そして究極は、非公開で人を殺めみんなで食していた地域も実際あるようです…。
人は、極限の中で生きる為には、倫理を捨ててしまうことが多いのです…。
しかし昔と比べて現代社会は、食べ物が溢れている豊かな状況であり、全く価値観が異なってきます。
時代相応に、人としての倫理観が当然求められるようになり、靈性は進化してゆくわけなのですが、それは、正き教育によってもたらされます。
私たちはこれまでも、靈性進化を目的にして繰り返し転生してきているのですが、その都度、何を学び何を取捨選択すべきなのか?個々に課題は異なります。
環境汚染、生態系破壊、倫理崩壊してしまっている現代の地球社会において、生態系の頂点にいる私たち人間は、これからどう在ることが望ましいのでしょうか?人としての“選択が問われる時代”にあります。
何を選択することが、新たな時代に生きる人として、自他共に真の喜びになるのか?
いずれにしても、今日、何を理由に何を食べたいのか?食べたくないのか?ということが、個々に委ねられているのでしょう。
みなみなうれしうれしたのしたのし
むーうーるーうー
2020.3.27 神人 拝
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